字象:意味体系の視覚構築——「春野体書法」が表現するもの
汉字是中国书法的轴心,也是粘合汉民族共同体的文化胶水。汉族是一个虚构的种族概念,它在本质上是汉字共同体,也通过汉字实现彼此身份认同的文化共同体。没有汉字轴心,就没有所谓的“汉族”或“中华民族”。
漢字は中国書道の中軸であり、漢民族共同体文化を張り合わせる「のり」のようなものでもある。漢民族とは、一つのバーチャルな種族概念であり、その本質は漢字共同体の上に成り立つもので、漢字を通じて互いに文化の共同体にいることを認識しあってきたのだ。もし漢字という中軸がなかったなら、いわゆる「漢民族」あるいは「中華民族」というものもなかっただろう。
2016|春野‘水意书象’书法作品展在同济大学举行
汉字的本质是表意文字,它建立在象形、隐喻(会意)和笔画互文(指事)的基石之上。汉字显示出“微观语言学”的全部特征,此即意味着,汉字在微观层面(文字层面),已经展示出语言学(语句)层面的主要结构特征。这是一切表音文字所缺失的本性。我们必须学会利用这种本性。
漢字 の本質は表意文字だということだ。漢字は象形、会意、指事という基礎の上に成り立っている。漢字は「ミクロ言語学」のすべての特徴を表しており、つまり漢字とはミクロのレベル(文字というレベルで)、すでに言語学(語句)レベルの主要な構造特性を持っているということである。これがすべての表音文字に欠落している本性である。わたしたちはこの漢字の本性をすべからく利用できなければならない。
书法建立在表意文字的逻辑上。书法自身兼具了表意和表形的双重功能。一个好的书法家,必然善于表意和表形的两足行走,而非只是誊写匠和簿记员。但在古典时代,书法却是一种用来记录文字的工具。以现今的尺度评判,几乎所有古典书写者都是书法家,因为他们完全具备“家”的技巧。这意味着“书法家”是一个被后人伪造出来的概念。古典时代没有“书法家”,只有“书写者”。“书法家”不过是书写告别日常生活后的畸形产物。在华夏农业文化严重衰败之后,日常书写工具被置换为硬笔和现代纸,甚至是电脑或手机键盘,书法早已丧失使用价值,转而成为极少部分人掌握的“特技”或“艺术”。而这正是现代书法家诞生的秘诀。
書(書道)は表意文字のロジックの上に成り立っている。書自身に表意(意味を表す)ということと表形(形を表す)という二つの機能を兼ね備えている。一人の素晴らしい書道家は必然的に表意と表形という二本の足で歩かなければならず、そうでなければただの書き屋か簿記員でしかない。古典時代、書とは一種の文字の記録の道具であった。現在の尺度から見れば、ほとんど古典的書物の書き手は書道家ということになる。なぜならかれらは完全に「書道家」と呼べる技巧を備えていたからだ。これは「書道家」というは後世の人々が捏造してできた概念であることを意味している。古代には「書道家」は存在せず、「書写者(字を書く人)」のみが存在したのだ。「書道家」とは文字を書くということが日常生活に別れを告げた後の奇形の産物に過ぎないのだ。華夏農業文化の大いなる衰退の後、日常的な「書写(書くこと)」の道具はペンと現代の紙に置き換えられ、甚だしくもコンピューターや携帯のキーボードへと変わっていき、書道はすでに使用価値を失い、極めて少数の人たちが掌握する「特技」や「芸術」と変化した。これがまさに現代書道家誕生の秘密である。
同济大学博物馆展厅大门
在跟日常生活分道扬镳之后,书法的表意性便趋于衰弱,它无须符合工具性标准,纳入可以“看懂”的实用框架,恰恰相反,它获得全新的表意自由,这就为图像的介入和形成“字象”,提供了坚硬的逻辑前提。书法被日常生活抛弃,不是书法的悲剧,相反是一次伟大的解放,驱动它向新视觉和新技法的营地进发。
日常生活の道具であることとは目的を異にするようになってから、書の表意性は次第に衰退し、道具性の基準に合わせる必要がなくなり、「見てわかればよい」という実用性の枠組みに押しこめられたが、逆に、表意の自由の全面的刷新を得ることにより、これが図像の介入した「字象(字の形、イメージ)」形成のための強靭な理論の前提となった。書が日常生活から見捨てられたのは書の悲劇ではなかった。反対に初めての大いなる解放であり、それが新たな視覚と新技術の陣営への出発に駆り立てたのだ。
原凤凰卫视副台长曹景行致开幕词
但迄今为止,书法美学仍然停留在古典工具时代,那些传统碑帖,继续作为书法的样板,为新书法的生长制造严重障碍。本朝“书法家”没有跟上自我解放的步伐,寻求古典书法的当代变革。时下流行的书法,不过是一堆古人毛笔唾液的复制品而已。它的唯一价值,是在声名狼藉的帝国文化市场中,扮演“雅贿”的暧昧角色,或者,成为土豪们附庸风雅的道具,盘踞在客厅、书房和展室里,不倦地散发庸常、陈腐和铜臭的气味。
ただ、今に至るまで、書の美学は依然として、古典的道具の時代にとどまっており、伝統的な碑帖が今なお書道の手本であり続け、新しい書法の成長の障碍となっている。現代にいきる「書道家」たちは自己解放の歩調に追いつけず、古典的書法の現代的変革を追い求めている。今日流行している書道の方法は、多くの古人の筆についた唾液の複製品でしかない。その唯一の価値は落ちぶれた帝国文化市場の中で、「優雅な賄賂」的な曖昧な役割を演じるか、あるいは成金たちの上品ぶった道具になって、客間や書斎、展示室にとぐろを巻き、飽きもせず世俗的で陳腐な金銭欲の匂いを放っている。
突破这个瓶颈的最大难点,在于书法早已沦为商品,而市场上的买家,大多是无知或趣味保守的土豪和官员,根本无力接纳任何书法领域的革命。他们坚定地爬行在墓碑和古帖上,成为书法革命的最大障碍。书法家只有放弃对市场的迷恋,才能真正解放自我,获得创意和创新的自由。
この最大の難関を突破しようにも、書がすでに商品として零落した中、市場の買い手の大部分は無知で保守的趣味の成金か官僚たちであって、いかなる書法領域の革命も受け入れる力がない。かれらは揺るぐことなく墓碑や古帖の上を這い回り、書法革命の最大の障碍となっている。書道家たちは市場の魅力を放棄してのみ、まさに自我を解放し、創意と刷新の自由を手に入れることができるのだ。
我已经注意到,极少数书法家正从事这方面的实验,尽管时常陷入失败,却开启了美学冒险的阔大空间。春野体书法,是所有此类“字象”尝试中的一种,它改善了我们对流行书法的媚俗印象。
私はすでに少数の書道家たちがこうした実験にいままさに取り組み、たとえ常に失敗におわろうとも、美学の冒険という広大な空間を開こうとしていることに注目してきた。春野体書法はこうした「字象」の試みの一つであり、それは流行書法が大衆に媚びるものだという私たちの印象を払拭してくれる。
展览现场一瞥
为了方便起见,本文不妨以一种粗暴的方式,将“春野体书法”简单概括为六种表征:
ここでやや大雑把ではあるが簡単に、「春野体書法」を次の六つの表証で概括したい。
第一,以惜墨、惜金、惜时的姿态,穿越“单字叙事”的瓶颈,展示其不顾千年书法禁忌,破釜沉舟,铤而走险,以期制造全新“字象”效应的野心;
その一、惜墨(墨を惜しむ)、惜金(お金を惜しむ)、惜時(時を惜しむ)の姿勢で「単字叙事(一文字で出来事を説明する)」の難関を飛び越え、千年の書法のタブーを顧みることなく、必死の覚悟で戦いに挑み、全く新しい「字象」効果の創造に野心を砕いている。
第二,追求疯癫、奇崛、诡异的字象效应,营造书法界的表现主义风格,并据此沾染浓烈的美术(图像)气味;
その二、錯乱した風変わりで奇異な美しさの字象効果を追い求め、書法における表現主義スタイルを構築し、これにより強烈な美術的(図形的)雰囲気を醸し出している。
第三,注重多种字体的“非经典”混用,以瓦解传统的书写规则和章法;
その三、多種の字体の「非古典」的混用を重視することにより伝統的筆法規則と章法(行間構成)の瓦解させている。
第四,注重灵光突现和即兴运笔,在不同场景和时空里,展示书法的诸多变数,沉浸于随机、不确定和不可操控的“耗散结构”之中;
その四、閃きと即興の運筆を重視し、異なる情景と時空の中で書法の様々な変数を提示してみせ、臨機応変で、不確定、操作不可能な「耗散構造」の中に沈溺している。
第五,基于书者本人的诗人背景,其书法跟现代诗(注意不是古典诗)发生了一种自然的融接。它不仅直接决定书写的内容,而且对构图和笔意产生微妙影响。
書き手本人の詩人としての背景により、その書法は現代詩(古典詩ではない)と一種の自然な融合を生んでいる。それは直接書写の内容を決定づけるだけでなく、その構図や筆致にも微妙な影響を及ぼしている。
参观展览的的观众
第六,春野的“字象”作品,大多采用深蓝色纸本(宣纸)和金粉(有时也用黑纸银粉)。这种蓝黄搭配,取深蓝色的幽深内敛和金黄色的炫耀张扬,形成冷色与暖色、沉郁与豪放、内敛与夸饰的二元对抗,是近年来对传统书法黑白二元的重要改良。
その六、春野の生む「字象」作品の大部分は濃い藍色の色紙(宣紙)と金粉(時には黒紙に銀粉)が用いられている。こうした藍に黄金色の組み合わせは、藍色の自制の利いた含蓄のある幽玄さと、黄金色のまばゆい高揚とを持ち、冷色と暖色、沈鬱と豪放、含蓄と誇張との二元対立を形成し、近年来、伝統書法の白黒の二元性に対する重要な改良となっている。
这种配置原本用于心经抄写,偶尔也指涉古典诗词,但大多循规蹈矩,只是用于映衬佛学和古典诗词的尊贵气质,而书法本身,便失去了可以腾跃拓展的场所。
このような配置は本来写経に用いられて、たまに古典詩詞に於いても用いられることがあるが、多くは枠を超えることはなく、仏教学と古典詩詞の高貴な雰囲気を醸し出すために用いられるのであて、書法としては活躍の場を失っている。
其实此前水墨画界已经有过各种趣味盎然的尝试。画家们找出元书纸、皮纸类、高丽纸、云龙纸、棉布、亚麻布、无纺布和化纤布等,又在水墨画中运用水彩、水粉、丙烯、金粉、银粉、金箔、银箔、云母粉等色料。这是一些没有底盘和尽头的实验。
実は、これまでの水墨画においては、こうした試みはすでになされていて、画家たちは元書紙、皮紙類、高麗紙、雲龍紙、綿布、麻布、不職布や化学繊維などをを探してきて、水墨画の中で水彩、水粉、アクリル、金粉、銀粉、金箔、銀箔、雲母粉などの顔料を用いている。
但在接管“蓝金色系”之后,春野做出了某种更为有力的变革。此前,春野深受日本书道家影响,追求日本书法大师井上有一的越界精神,而在“字象”上另辟蹊径,以黑白色系为起点,开始践行他自己的书体实验——跃出章、行、隶、草、楷诸体的森严边界,按书写内容及场景的实际状况,展开杂糅、混写和“拼贴”的营造游戏。汉隶在变形跳舞,草书回归至原始象形文字的空间,章、行、隶、草、楷的体式遭到颠覆,进而合成新的书法元素。这种解构式的笔法合成,不仅有书者对传统法度的依恋,更是对新书法原则的全力以赴的诠释,并从中流露出创新的自信和喜悦。蓝金色系放大了这种变异的力度。它是一场线条、块面、色彩和笔势的“字象”舞蹈。
しかし「藍金色系」に引き続き、春野はよりもっと力のある変革を起こしている。以前、春野は日本の書道家たちの強い影響を受け、ことに日本人書道家井上有一先生の「越界」精神に追随し、「字象」の上に道を切り開き、白黒系を出発点として、彼自身の書体の実験を試みている。つまり章草、行書、隷書、草書、楷書体という厳格な境地を覆えし、書の内容及び情景の実際の状況に基づき、混ぜ書きの「併貼(ジグソーパズル)」ゲームを展開したのだ。漢隷は変形し、舞い踊り、草書は原始の象形文字の空間に回帰し、章、形、隷、草、楷の書式は転覆に合い、一歩進んで新しい書法の要素を合成している。この種の構造解体式の筆法の合成は、書道家の伝統法則に対する恋慕であるばかりでなく、さらに新しい書法原則に対する全力の解釈であり、その中に創造への自信と喜びを溢れさせている。藍金色系はこうした変異の力を強めたものである。それは線と面と色彩と筆勢いといういう「字象」の舞台でなのである。
作品名:风·横金(长1300×宽420)
以《风》为例,它的行书的走笔看似满含凶险,其间更是渗入草书的野心,如此开始中锋行笔,枯竭而又散漫,在弯道上留下竹节,偏锋回力,以点将字气聚结,章草的用心昭然若揭。在《肤色》里,书者企图颠覆隶书笔意,不惜在“肤”字上丢弃传统技法的字劲,转而采用搓、顿等散风技法。这无疑是一种危险的悬崖式书写,它击破阅读视觉的常规经验,而深蓝底子上的金色运笔,犹如一次带电的飞行。它要么亮瞎精英观者的眼睛,要么加剧庸常观众的美学焦虑。
『風』を例にとれば、それは行書の運筆は険しさに満ちあふれたかのよう、その中に野心をにじませ、中鋒(筆先が書の中心を通って力強い)の筆致で、枯れた風合いを出すとともに散漫で、曲がりくねった筆跡に竹の節を残し、側筆(中鋒と対照的に傾けて書く艶やかな筆使い)には戻りの力があり、点を持って字気を集め、章草書に対する気遣いが見て取れる。『膚色』の中では、書道家は隷書の筆使いを転覆させようとし、「膚」の文字の上に伝統的な字の力を惜しまず、しかも搓(力を入れてこする)、頓(筆止め)などの散風技法に転換させている。これは疑うことなく一種の危険な崖登りのような書筆であり、それは読むという視覚の常識的な経験を打ち破り、藍色の地色の上の金色の筆使いで、あたかも電気を帯びた飛行のようである。それは目利きの眼光をも目くらまし、一般観衆の美学の焦りをも加速させるだろう。
作品名:问风·竖金(长440×高1550)
另一幅作品《翻飞》,再次露出书者的变革雄心。它初看犹如隶书,其间却揉入行书风骨,加上顶天立地的夸张布局,击破传统的定位规则,行笔舒展完整,技法夸张而不失细腻,力求笔意、心意和气势的三位一体,形成澎湃的笔势和布局,拓宽了水墨空间的视觉边界。
もう一つの作品『翻飛』では再び書道家としての変革への決意をみなぎらせている。一見すると隷書のようであり、文字の間は行書の骨格をとり、毅然として誇張された構図で伝統的な定位の規則を打ち破っている。それは行書の筆使いの自由度を広げ、技法は誇張されていながらも、細かさを失うことがなく、筆意と、心、勢いの三位一体を追求し、逆巻く波の勢いの構図を形成し、水墨空間の視覚の境地を広げている。
“鬼怒川”是日本演歌文化中经常出现的河川名字,自古便以洪水泛滥闻名,饱含“凶猛狂暴,如鬼之怒”的语意。书者以解构的立场下手,沿着似草似行的书写路径,辅以雄浑的魏碑字气,从起笔到收笔,状若疯癫,抑扬顿挫,犹如鬼哭狼嚎,以跌宕的韵律,揭出“鬼怒川”的奇诡与神奇。此品的妙处,是河流意象与书法走笔的合二为一。我们已经发现,就书法美学而言,能指和所指的完美对应,便是“字象”所要企及的最高境界。
「鬼怒川」は日本の演歌の中にしばしば登場する川の名前であり、古くから洪水が氾濫することで名を馳せている。「凶暴なること鬼の怒りの如し」という意味がある。この春野は構造の解析という立場からはじめ、草書的でもあり、行書的でもある路程に沿って、雄渾なる魏晋の石碑のような字の気配で、起筆から終筆まで跳ね上がるかと思うと、頓挫し、あたかも鬼が泣き、狼が遠吠えをするがごとく起伏に富んだリズムで、「鬼怒川」の奇怪さと不思議さを表現している。この作品の素晴らしさは、川の流れの意象と書の運筆との二つを一つに合わせたことにある。私たちはすでに、書の美学について言えばとシニフィアン(音のイメージ)と意味されるもの(シニフィエ)の完璧な対応であり、つまり「字象」の企てが要求するところの最高の境地となっている。
作品名:鬼怒川·竖金(长500×高1500)
本次同济博物馆展出的《骑凤》,延续了这种鬼怒川式的风格。书者改用银粉黑纸,融隶、行、草书的笔意,笔触展现复杂纹理,犹如激越的交响乐河流,在曲折转向中变得日益汹涌,最终形成的“字象”,矗立于人们的视界之中,俨然是一座凝固的立体冰川建筑。另一幅《水行•横银》,从汉字“水”的固有结构中解放出来,以行草的笔意,放胆表达水的奔涌意象,又如舞者在地甩袖展臂,气势遒劲而潇洒。跟题款和印章配伍后,形成简洁平稳的图像布局。以上两件作品,均可视为“春野体书法”的范本。
作品名:骑风·竖银(长450×高1700)
今回、同済博物館に展示する『騎鳳』はこうした鬼怒川式の風格を維持し、春野は銀粉と黒い紙に改め、隷書、行書、草書の筆使いを融合させ、そのタッチは複雑な綾をなし激しい交響曲の川の流れとなり、曲折して日に日に激しさを増し、最終的に「字象」を形成し、人々の視界の中に直立し、厳然として凝固した立体の氷河建築をなしている。もう一つの『水行· 横銀』は漢字の「水」の固有の構造を解放し、行書草書の筆使いにより、大胆にも水のほとばしるイメージを表現し、踊り手が袖を振り、腕を広げて土の上で踊るがごとく、勢いは雄渾で、かつ洒脱である。落款と印章の配置も調和がとれ、簡潔で平穏な図柄の構図を構成している。以上の二つの作品は、どれも「春野体」の典型と言える。
作品名:水行·横银(长1600×宽900)
《葵花的太阳•横金》是春野另一类实验路径的表达。它运用难度甚高的泼墨技法。书者利用墨料水化和晕染的效应,向观者展现出全新的“字象”格局。“葵花的太阳”作为标题,犹如几株散落在田原上的野葵,晕染开来的葵盘,于枝蔓的纠缠之中,谦卑而自由地绽放,而在它们的旁侧,诗句像稻菽一样整齐地排列,仿佛是农夫精耕细作的杰作。这是一种自由和秩序的二元对位,显示书者在叛逆和循轨之间寻求平衡的内在意图。春野坚信的是,任何书写都无法彻底背弃章、行、隶、草、楷的基本原理。这是春野书法所要遵循的“字象伦理”,它要留住对传统的最后敬意。如果没有这种伦理的底线,任何一次书法解构的图谋,都将沦为新的视觉灾难。
『ひまわりの太陽· 横金』は春野のもう一つの実験過程の表現である。それは難易度の高い溌墨という技法を用いている。春野は墨汁を水に垂らし、ぼかし染めのような効果を用い、見るものに全く新しい「字象」の結果をしめしてみせている。『ひまわりの太陽』をテーマとし、まるで野原に咲く何本かの野のひまわりのようだ。ぼかし染めでかいたひまわりの中心は、枝と絡まり、慎み深くかつ自由に花開き、その傍には、詩句がまるで穀物のように整列して並び、それはあたかも農夫が丹精に育てた傑作を思わせる。これは自由と秩序の二元対立であり、春野が反逆と常識と間でバランスを取ろうとする意図を表している。春野の信念は、いかなる書法も章草、行書、隷書、草書、楷書体の基本原理を徹底的に放棄することはできないということである。これは春野の書法が遵守する「字象倫理」であり、伝統に対して最後に残した敬意である。もしこうした倫理の最低線ががなかったなら、いかなる書法の解体を図ろうとも新たな視覚の災難に陥ってしまうだろう。
作品名:葵花的太阳·横金(长1700×宽900/㎝)
河崎みゆき(深雪)訳
河崎深雪(简介):毕业于日本国学院大学,硕士学位。2005年起致力于中国华中科技大学日语教学和中国社会语言学研究,博士学位。现任教于日本某大学并兼翻译工作。
参考文献:
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